ホイットニー少佐のフィルム
Major Whitney's Film

岡山映像史のミッシングリングを埋めたフィルム

 フィルムの山

岡山の世相を記録した動画の映像は大正時代に始まり、国家総動員令(法)が発令される1938年、昭和13年で途切れたとされています。その後は一般への8ミリフィルムの販売が再開される1950年、昭和25年頃まで動画フィルムは存在が確認されておらず、混乱期の郷土を映した映像を見ることは出来ませんでした。

この岡山動画映像史のミッシングリングを埋めたのが、「ホイットニー少佐のフィルム」です。アメリカ陸軍少佐で進駐軍岡山軍政部の初代部長だったエドウィン・C・ホイットニーが撮影した200フィート巻きリール12本に及ぶ8ミリフィルムには、終戦直後の岡山の惨状や復興の様子がカラー映像で記録されていました。
ホイットニー少佐

一通のメールから始まった出会い

山陽放送に倉敷市の方から1通のメールが届いたのは2000年の春でした。そのメールには、アメリカのミルウォーキーに住む女性が、終戦直後の岡山の様子を撮影した8ミリフィルムを持っているので、資料として役立てて欲しいと言っているという内容が書かれていました。
山陽放送ではその女性とメールによる連絡をしばらく行った後記者をアメリカに派遣しました。女性の名はローリス・ジェイコブス、ホイットニー少佐の娘さんでした。ローリスの話では、少佐は帰国後中佐に昇進し、退役ミルウォーキーで過ごしていましたが、1999年11月、85歳で亡くなられたということです。
フィルムは終戦から60年という節目の年に、夫妻の手で山陽放送の関連会社山陽映画社に届けられました。

届いたメール
ジェイコブス夫妻

少佐の足跡を求めて
訪問調査

全部で3時間近くに及ぶホイットニー少佐の映像の中にはどこを撮影しているのか判らないものもたくさんあります。このため、遠くに見える山の形や60年後の現在でも残っている建物などを頼りに、場所当てクイズの様な作業が、ライブラリーの作業の合間を縫って行われています。

この作業の中で、住民が道端で大豆の鞘から外している場所が岡山市出石町だったこと、蒸気機関車を運転している場所が岡山市浜の西大寺軽便鉄道後楽園駅構内だったことなどが判りました。こうした作業は、当時の風景を知る人たちに行き当たるのが最も効率的ですが、見つけられなければ当時の航空写真や地図などから推測し、残っている資料と照らし合わせて場所を特定することになります。

日々の業務に忙しい少佐は、特別なことが無い限り遠出が難しかったことが分っています。その少佐がどこでどんな風にカメラを回していたのか、その足跡を追う謎解きはまだまだ続きます。

出石町界隈
西大寺軽便鉄道

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少佐のフィルムより
No.001
復興した表町商店街
復興した表町商店街

No.002
みずしま1号試作車
みずしま1号試作車

No.003
復興進む
復興進む

No.004
原尾島競馬
原尾島競馬


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